ある病院の取材を行った時の事でした。
救急治療室に、バイクでの交通事故で重体になった男性が運ばれて来ました。
緊迫する治療室、患者に声をかける医師たち、動かない心臓、胸に入るメス・・心臓マッサージ・・・。
残念ながら、その男性は息を引き取りました。
死因は対向車線の車の追い抜きで、車線を飛び出した車をよけるための接触事故でした。
男性はまだまだ生きようと思っていたと思います。不慮の事故です。まったく誰も予期していなかった未来…。
この時私は考えました。彼はさぞ無念だったろうと。
彼は何かをきっと伝えたかったはず。。子供がいたら、もう一度強く抱きしめたかったはず。。。
しかし、彼はもう帰って来ません。何も話せないのです。
そして、その家族を思いました。
家族はどう思うのだろう。出かけた男性が無言の帰宅。
最後に一言でも話したかったのではないだろうか?
彼が話したかった事を知りたかったのではないだろうか?
彼が伝えたかった事を少しでも知りたかったのではないだろうか?
どんなささいな事でも、“教えて欲しい”だろうと。
そんな家族や、その人を愛していた人たちに何か少しでも、
その苦しみを和らげる事はできないのか?…そう考えていました。
私は高校の同級生、そして大学の同級生が亡くなった経験があります。
彼らを想う時、決して彼らが返答しない事がわかっていても、私は聞きます、
私は君らの分まで生きられていますか?と。
答えの無い事が分かっていても、彼らから何かの答えを聞こうとするのです。
そして、少しずつ色々な人たちの話を聞き、故人の友人たちの顔を見、
ああ、故人はこんなに好かれていたんだ、素敵な人だったんだ、と知り
故人がどれほど愛されていたのを実感し、故人の想いを“感じる”のです。
それは、きっと家族や一番側にいた故人を愛する人たちにしてみれば、
もっともっと、もっと感じたかったはず。
なぜなら、それが“故人からの答え”だから。
しかし、そんな想いを受け止めてくれる場所はどこにも存在していませんでした。
このサイトはそんな想いから立ち上げました。
故人を愛して止まない人たちの為に。
故人を偲び、死を見つめる事で、逆にしっかりと生を見つめ、自分の生きて来た道を反芻し、故人以上に精一杯、生きていく為に。
故人の笑顔、息遣い、優しさ、尊敬するところ、必死に生きていた事、すべてを残された人達が共有できたとしたら、その人は想いとして、生き続けるのではないでしょうか。
皆の故人に対する想いをここに書き込み、故人を忘れず、残されたものたちは自分の命を輝かせてしっかりと生きていく。
故人だけの為ではなく、“今、これからを生きる人たちの為”に、この場所は存在しています。
2015年7月 MEMORIALS代表 村上宗義